なぜ我々は”面子”という言葉を使わない?
『中国人は面子を重んじる』という言葉をよく聞く。中国に来た当初の上司から、いきなり『中国人の面子だけは潰すな!殺し合いになる。』と物騒なアドバイスを頂いたことがあり、インパクトのある言葉なので、しっかりと胸に刻まれている。
『面子』とは具体的にどういう意味なのだろうか!? ”面子”の意味を辞書で調べると『中国語をそのまま使用したもので、日本語としては面目、体面ともいい、世間に対する体裁を意味する』とある。なるほど!中国が発祥となっている様である。しかし、現在の日本では、意味は何となく知っていても、ほとんど使われないのではないだろうか⁉ 私もある程度年季の入った古い人間であるが、自分の人生の中でも『面子』を口に出して会話をした記憶はないくらいである。
我々日本人にも当然、面子はあるが、わざわざ口に出して使わないのが現実なのではないだろうか⁉ なぜなのだろうか!? ここからは個人的感想なのだが述べさせて頂きたい。
個人的な感想だが、客観的な根拠を示さなければいけないビジネスの世界では通用しにくいのではないだろうか!? また、日本的に協調性とか阿吽の呼吸、侘び寂びなど奥ゆかしさを美徳とするところがあり、”面子”という強烈な自己主張や自己都合を控える傾向にある様に思う。
面子文化の中国と日本の比較
ここ中国では、この”面子”という言葉をかなり口に出して言う場面が多いのである。私が中国に来たばかりの頃は『面子か…都合のいい便利な言葉だな』程度にしか思っていなかったのであるが、中国人はこの面子という言葉を、使うわ使う‼︎ 何か事が有る度に『私の面子が立たない‼︎ 』と大きな声で主張するのである。
お酒の席では『あなたが飲まないと私の面子が立たない‼︎ 』、勘定の場面では、こちらが支払いなどしようものなら『私の面子を潰す気か‼︎ 』、ビジネスの世界でも『あなたの面子を立てる』、『これでは彼の面子が潰れてしまう』などなど。間違いなく、面子を中心に世の中が回っているのである。
これは良い悪いの価値観ではない。我々日本人の感覚と比較すると、滑稽に映るかも知れないが、”面子”という言葉を口に出して使い、お互いに面子を尊重するといった立派なひとつの文化が醸成されている。理論的根拠もない自己主張・自己都合に過ぎない”面子”を、お互い良い意味でファジー(曖昧)に受け止めることで、関係を良好に保つのである。
日本と比較しても、この曖昧さを受け入れる社会が存在している。いわゆるグレーゾーンの幅が大きくそれを許容する社会である。よって”面子”という言葉を使えば、誰も反論しない。『あ〜そうか。それがあなたの意見なのね。面子なら仕方がない』なのである。誰もそれ以上追求はしない。まるで、オールマイティーパスの様な言葉であるwww。
論理的に根拠を持って、白黒を付けたがる我々に対して、グレーゾーンの多いファジーさの中で考える彼らとでは意見が分かれ、もどかしい場面も多いのだが、お互い様であろうwww。
日本にはない”面子”の衝撃の意味とは?
中国での面子の意味だが、日本と同じように、面目、体面、体裁と、全く同じような意味で使われるのが殆どである。が、しかし‼ もう一つの意味がある事を知ることになる。
つい最近の事である。スタッフ同士が会話していて、耳に入ってきた言葉が『彼は面子が大きい』という言葉が偶然にも聞こえた。『ん?面子って、大きいとか小さいとか使うの?聞き間違い??』と思い、日本語がしゃべれるスタッフに聞いてみた。『大小で表現する事もありますよ。日本語の意味と少し違いますけどね!』と回答。意味を聞くと『忖度できる』という意味であった。要するに『面子が大きい』という意味は『彼に頼めば何とかなる』という尊敬の念や憧れといった意味も含まれるらしい。
日本で何かと問題視されている『忖度』という言葉が、こんな表現で使われるとは‼ と衝撃を受けると共にキナ臭い匂いもする事も確か…『彼に頼めば大学入試も…』『彼に頼めばこの商談も…』などと使われるのではないか⁉ と思わずにいられなかった。さすが人事政治と言われる中国らしい言葉の使い方だなあ~と思った日であった。
いずれにせよ、中国で『面子が大きい』というのは最上級の褒め言葉かも知れない。紛れもなく若い世代は『面子の大きい人になりたい』のである。
現代の様な国際社会の中で、この様な中国独特のファジーな面子文化やファジーな面子による関係性がいつまで続くか分からないが、良い面も悪い面も含めて現代の中国が成り立っている。
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